終奏「僕だけここにいる」について考察|ゆず『踏切』
1999年8月18日にリリースされたシングル『センチメンタル』の2曲目に収録されている『踏切』。終奏(アウトロ)には、「僕だけここにいる」と(恐らく)岩沢さんの声が入っています。
しかしその一方、2番の冒頭では「人ゴミ溢れ」という歌詞が出てくるのです。この記事では一体いつから「僕だけ」になったのか、なぜ「僕だけ」なのか、考察に挑戦したいと思います。
目次
- 『踏切』の歌詞
- パターン1…踏切が開いて、周りの人が居なくなったから
- パターン2…「そこ」と「ここ」が、厳密には別ものだから
- パターン3…パターン1、2の合わせ技
- まとめ
『踏切』の歌詞
昨日の夢 流行りの唄 君の言葉 響く靴音
町のざわめき踏切の前立ち止まり
頭の中真っ白になるまで考えてたいんだ
それは君の事でも僕の事でもなんでも構わない
目の前をいつの間にか通りすぎていた
八月の風を感じながら
気がつけばそこは人ゴミ溢れ
かき消されたため息さえもう何も届かない
何が何だか もうさっぱりだ声を聞かせておくれ
一体なんだって言うんだ⁉何か言っておくれ
交差する電車猛スピードで目の前を加速する
一瞬僕から音が遠ざかる…
気がつくと踏切の前
同じ場所にいる僕がいた
何も変わらない何者でもない
僕がここにいただけ
『踏切』/ゆず
この曲の歌詞は主に”目の前の様子(出来事)”と、”頭の中の考え事(思考)”で構成されていると分かります。例えば「町のざわめき踏切の前立ち止まり」は”目の前の様子”についての描写、「頭の中真っ白になるまで考えてたいんだ」は主人公が思ったこと、思考についての記述です。
「僕がここにいただけ」の後、踏切のごとき不協和音が鳴り、それより数段大きい音量のハーモニカから、終奏に入ります。コーラスの後に「僕だけここにいる」と4回ほど聞こえるうちにフェードアウトして、曲は終わりです。
この声が、なぜ「僕だけここにいる」なのか。頑張って考察してみたいと思います!
パターン1…踏切が開いて、周りの人がいなくなったから
踏切はずっと閉まっているものではありません。電車が通るとき以外は開いています。曲の中で「交差する電車猛スピードで目の前を加速する」とあるので、少なくとも2本の電車が既に踏切を通過したのは確実です。追加の電車が来ない限りは、踏切は開くはず。開けば当然、それを待っていた人たちは向かい側へ渡っていくでしょう。このとき、もし主人公「僕」が踏切の前から動かなければ、「僕だけここにいる」シチュエーションの完成です。
主人公は踏切を渡らないのか、という疑問が出ますが
- 歌詞の中に踏切を渡ったと分かる描写がない
- 「気がつくと踏切の前 同じ場所にいる僕がいた」
の上記2つを理由に、主人公は踏切を渡っていないと考えていきます。
『踏切』では、”目の前の様子”と”頭の中の考え事”が歌詞の中で入り混じっていますが、「いつの間にか」「気がつけば」「気がつくと」の後に”目の前の様子”が描かれることがあります。このことから、主人公は目の前の出来事よりも自身の思考に意識が傾きがちであると想定でき、そのせいで踏切が開いてもそのまま突っ立っていた可能性が考えられます。
また、踏切が開く決定的な描写があるわけではありませんが、何しろ「何が何だか もうさっぱり」なときの考え事ですので、それが踏切の待ち時間で終わるとは到底思えません。きっと、考え事が終わる前に踏切は開いているのではないでしょうか。加えて「気がつくと踏切の前 同じ場所にいる僕がいた」という歌詞は ”気づいたら踏切が開いていて、なのに同じ場所にいた” ことを表現したのではと考えることも可能です。
したがって、踏切が開いて周りの人が渡っても、主人公は考え事をしたまま突っ立っており、「僕だけここにいる」状況が完成した。というのが、一つ目の考え方です。
パターン2…「そこ」と「ここ」が、厳密には別ものだから
2番目の冒頭「気がつけばそこは人ゴミ溢れ」に対して、終奏では「僕だけここにいる」という歌詞です。もし「そこ」と「ここ」が別のものを指しているならば、主人公や周囲の人間が移動しなくとも辻褄が合います。つまり、曲の中でもし踏切が開いてなくともパターン2は成立します。
では、「そこ」と「ここ」は何を指しているのでしょうか。結論としては、
- 「そこ」=目の前にある、踏切の周辺
- 「ここ」=自分自身(自分の中)
という使い分けがあると考えました。
先ほども少し書きましたが、この曲の歌詞では”目の前の様子(出来事)”と”頭の中の考え事(思考)”が入り混じっているのです。
「気がつけばそこは人ゴミ溢れ」では目の前の出来事が描写されています。したがって、「そこ」では目の前にある踏切、その周辺を指していると分かります。
一方、最後の「僕がここにいただけ」は、「何も変わらない何者でもない」の後に続く言葉です。この部分を、主人公の、主人公自身についての考えであると捉えると、「何も変わらない~ここにいただけ」は、出来事ではなく思考についての歌詞になります。そして「ここ」は踏切周辺を指しているのではなく、自分自身のことを示していると解釈できると考えました。
「僕だけここにいる」においても「ここ」=自分自身のことを示し、この言葉を、”主人公が踏切の前で考え事をする中生まれてきた頭の中の声”であると捉えます。
ゆえに「そこは人ゴミ溢れ」ていても「僕だけここにいる」という歌詞と矛盾しない。これがパターン2の考え方です。
パターン3…1、2の合わせ技
終奏でなぜ「僕だけここにいる」かについて、2番の歌詞「気がつけばそこは人ゴミ溢れ」を踏まえて考察した結果、
- パターン1…踏切が開いて、周りの人が居なくなったから
- パターン2…「そこ」と「ここ」が、厳密には別ものだから
の2通りが考えられました。
パターン1で「僕だけここにいる」というのは、実際に踏切の周辺に人がいなくなった(出来事)と想定し、一方パターン2では、考え事をする中で出てきた一つの結論(思考)として捉えています。
パターン3では「僕だけここにいる」という言葉を、踏切の前に立っている「僕」の実際の様子(出来事)と、考え事をしていた「僕」の頭の中の声(思考)の重ね合わせであると考えていきたいと思います。
そのように考えられる理由は、『踏切』が”目の前の様子(出来事)”と、”頭の中の考え事(思考)”を表す歌詞で構成されている曲だからです。
考え事をする頭の中を、踏切の前にいる様子に例え、重ね合わせて表現したのではないか。そう仮定して歌詞を見ると、1番では
- 「~町のざわめき踏切の前立ち止まり」(出来事)
- 「頭の中真っ白になるまで考えてたいんだ~」(思考)
踏切の前に立ち止まった様子と、なにかに行き詰まり考え事をする主人公の重ね合わせが。2番では、
- 「気がつけばそこは人ゴミ溢れ~」(出来事)
- 「何が何だかもうさっぱりだ~」(思考)
人ゴミ溢れて雑然とした様子の踏切と、何が何だかもうさっぱりで思考も雑然としてしまった主人公の、重ね合わせが見て取れます。
これと同じような調子で、最後の「気がつくと~ここにいただけ」を理解しようとすると、
- 「気がつくと踏切の前同じ場所にいる僕がいた」(出来事)
- 「何も変わらない何者でもない 僕がここにいただけ」(思考)
踏切が開いても同じ場所にいたため一人になった様子と、色々と考えあぐねて出てきた結論「僕がここにいただけ」、を重ね合わせたと考えられます。
そして、終奏の「僕だけここにいる」は、出来事と思考のどちらともとれる言葉。終奏の雰囲気から私が勝手に想像したのは、「僕だけここにいる」は出来事と思考が、主人公の中でないまぜになったことを表現したのでは、ということです。
まとめ
以上、終奏「僕だけここにいる」についての考察でした。
パターン1では、踏切の前に一人たたずむ主人公の様子(出来事)を。パターン2では、考えあぐねて出てきた結論(思考)を。パターン3では、出来事と思考の重ね合わせを表現したとの考察をしましたが、そのどれでもない可能性も、もちろんあります。
結局、終奏については『踏切』を実際に聞いてみたとき、どう考えたかで判断する他ないのかも知れません。